障害とはどこから生まれるのでしょうか。
医学的には身体的、精神的、知的、難病となどに分類された障害が存在します。
当然のことながら生きいてる人間は最期に死を迎えるときにはなんらかの障害を背負います。極端な話、障害者はある意味人生の先輩です。
しかし何に対しての障害なのか、それは日常生活または社会参加において滞ることを障害と考えることが多いです。
そこを切り取って弱者という考え方となります。そもそも障害者は弱者であるという考えも平等ではありません。
また社会は人間の手によって作られたものであり完全なものではないはずです。誰が社会を正しいと肯定できるでしょうか。立派と言われる高学歴の政治家が汚職や裏金に手をつけたりする世の中です。
例えば不登校の学生がいるとして、学校に行かなかったとしても世間体的に社会のレールに合わせることが前提となっているだけで、不登校が絶対に間違っているとう考えは偏っているといえます。
学校に行かなくても成長はできます。勉強は学校じゃなくてもできます。学校に行かないことが将来何らかの障害を生むというわけではありません。学校に行かないことにより、なんの努力もしなければ、成長は止まるかもしれません。
しかし、容認するかしないかは社会を築く側の問題です。車椅子の方へのバリアフリー、知的障害の方への合理的配慮や権利擁護など社会が許容すれば、そこに障害という垣根はなくなります。
生きにくい世の中を改善することで、多種多様な人生が生まれ、そこにはもう障害という存在すら必要ない世界が広がります。